徒然なる読書日記part6 南直哉『老師と少年』
おはようございます^^
こんにちは!こんばんは!
tigubaguこと桂木大輝です。
(https://twitter.com/tigubagu0123)
久しぶりの徒然なる読書日記シリーズです!
前回の記事は以下です。
今回は南直哉『老師と少年』を紹介します!
なぜ人は死ぬのか。私とはだれか。こころとはなにか。
皆さんも一度はサブタイトルにあるような問いを考えたことはありませんか?
僕も昔は「死んだらどうなるのか」、「なんで生きてんだろ」とか考えていましたが、今はこのような問いは姿を変えて別の問いとして残っています。
今僕がずっと気にかかっているのは、
- こころとは何なのか?そもそもそんなものがあるのか?(そもそもものですらない?)
- 他人にこころはあるのか?こころ(意識でもいいけれど)があるのは僕だけでほかの人間にはこころはないのではないか?
の2つですね。
ずっと気になってもやもやしているのですが、考えだしたら泥沼にはまるので、考えると考えないの瀬戸際をいつも思考の中で歩いている感じです。
今回紹介する南直哉(みなみ じきさい)さんの『老師と少年』にはそんな僕と似たような問いを持つ少年と、その少年と真剣に対話する老師とのやりとりが書かれています。
言葉でながなが説明するよりも、いつものように僕が感銘を受けた部分を2つ抜粋して僕のコメントを書いていきたいと思います^^
みんなが考えないようなことを考えてしまう人
「僕には他人が当たり前だと考えていることがわからないのです。当たり前の世界には問うてはいけないこと、考えてはいけないことがあるのですか?けれども僕みたいに、それがどうしても忘れられず、考えずにいられない者もいるのです。
(中略)
死ぬとは何か、それが知りたいのです。僕がいなくなる。消えてしまう。それはどういうことなのか。知りたいのはそれなのに!!
師よ!大人はわからないのです!!答えが、ではない!大人は僕の質問が何を意味しているかのかわからないのです。それさえわからないのに、死んだ後のことは(天国に行くとか、お星さまになるとか)わかると言うのです!」
「友よ。違うのだ。大人は君の質問をわかっているから、死んだ後の話をするのだ。大人も一度は君と同じ事に気づく。しかしそれは決して答えられない、とても危険な問いなのだ。だから隠そうとする。自分もそうされたように、隠そうとする。大人になるとは、そういう問いを隠していくことなのだ。隠すことで当たり前の世界はできているのだ。」
少年は、「死ぬということ」がわからずにその問いに憑りつかれていました。
しかし少年は必死にその問いを解こうとするが、多くの大人も一度は考えたことのある問です。
僕自身もよく考えました。
しかしこの現代社会を(いい意味でも、悪い意味でも)そつなく生きていくには、このような問いを隠していくことが必要不可欠となります。
特に社会の一員となりばりばり働き生産性を追い求める生き方をするならばなおさらです。
僕も自分が気にかかっている問いは人には話せません。話したとしてもはぐらかされるか、面白いこと考えてるねと言われるか、はたまた頭のいい人に「それはこういう理由で~」と理攻めされるかのどれかだからです。
自分の問いを切実に抱え、「自分もその問いを今現在も気にしてる」って人とはおそらく出会えないと思っています。
なぜなら自分自身の問いは誰のものでもない、自分だけのものだからです。
「本当の自分」を求めて・・・
「師よ、本当の自分が知りたいのです。今の僕は僕ではない!人々の中で、人々の前で、求められるようにふるまい、そうあるべきようにふるまい、そうあるべきようにふるまう僕は、僕ではない!それは仮の嘘の僕なんだ!」
「君は『本当の自分』ではない。だから、『本当の自分』はわからない。だから、本当の自分を永遠に知ることはできない。会ったことのない人は探せない。
(中略)
人は皆、当たり前に『私』という。しかし、この言葉は何を意味しているのか?友よ、君もまた簡単に『僕』と言う。それは何を指しているのか?」
「それは・・・・」
「なんだ」
「・・・・」
「体か?」
「いいえ」
「心か」
「そうかもしれません」
「いつの心か」
「今のです」
「今はもう過ぎた。過去の心はすでにない。未来の心はまだない。そして過去の心と今の心と未来の心が、同じ『僕』の心だと、なぜ言えるのか。」
「では、なぜ僕はいつでも僕なのでしょうか」
「人は思う。変わらぬ『私』を支える確かなものがあるはずだ、と。だが、それは、どのようにしても見つけられない。なぜなら、『私』という言葉は、確かな内容を持つ言葉ではなく、ただある位置、ある場所を指すに過ぎない。」
「その場所はどこですか?」
「『あなた』や『彼』ではないところ、『いま、ここ』だ。『私』はそこについた印なのだ。」
<わたし>なんてのは存在しない。
確かに考えだすと、私は私だ!って言ってる私って誰?
ってなってどんどん後ろに下がっていってしまいますもんね。
なんかここらへんのことは昨今のいろんな哲学者も言ってますよね。
「<わたし>とは言葉にすぎない」とか「社会的に作られた産物である」とか。
まあなんにせよ、<わたし>なんて摩訶不思議なものは存在しなく、そうなると<本当の自分>ってのも存在しませんね。
というか、「自分」と「本当の自分」の違いもわかりませんね、こうなると。
じゃあ今考えている<この意識>は何なんだ?と疑問がわきますね。
これも考えだすと泥沼なんでやめておきます。
それよりも僕はこの個所を読み、<わたし>なんて存在しないと聞き、少し楽になりましたね。
「本当の自分」なんて存在しないのだから、日々ただ生きるのみです。
もちろんそのうえでも「本当の自分」を考えることはあるでしょうけれど、それでも今やっていることに淡々と集中し、意識を外に向ける、といいますか・・・
うまく伝えられませんけど、少し楽になったのは事実です。
今回はこの2か所を紹介しましたが、この本自体とても薄くかなり読みやすいので、
似たようなことを一度でも考えたことがある人にはおすすめです^^
今日も皆様の一日が良き日でありますように!^^
ではまた!^^