「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

誰にも共感してもらえなくても大丈夫

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

https://twitter.com/tigubagu0123

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共感してもらないこと、人に話せないこと、誰しにもある

自分の大切にしている考えや、信条にしていることが他者に理解されない、受け入れてもらえないときってすごくつらいですよね。

そのうえ社会は「わかりあえることが一番で何よりもいいこと。」としているものだから誰ともわかりあえない自分はダメなんじゃないか、そう思ってしまうときもあると思います。

実際僕なんかがしょっちゅうそんなふうにわかりあえないこの自分に対して時にすごく寂しく、孤独を感じるときもありますが、とはいえこれも僕なのでどうしようもないんですよね。

 

ここで自分の話を一つ。

少し以下のホームページの記事をご覧になっていただきたいです。

https://www.huffingtonpost.jp/2017/03/15/math-memory_n_15397220.html

この話は、小学1年生の時の著者が、算数の授業で「1+1=2」がわからなくて強迫神経症になったという話なんですが、僕は最初このブログを読んだ時に心の底から共感しました。

なにに共感したかというと、

「わかってもらえないことが、わかってもらえないってつらいよなあ!!」ってことです。

普通質問なんかすると、わかっている人が「わからせようとする構図」がそこには生まれます。

しかし当人にとってはいくら説明されても、「わかること」と「わからないこと」はまるで別で、「わからないことはわからないこととして依然残っている」んですね。

この話の女の子も、そうなんですがこのようなタイプの人にはまずは「そうだね。君の考えで行くと確かにわからないね」とわからなさを認めてあげることが必要不可欠だと僕は思っているんですよね。

 

はい。本題戻ります。

この上の話は僕自身もずっとわからないことがわかってもらえなかったので書いた話なんですが、このブログを読んでいる人の中でも、上の話を分かってくれださる人もいれば、そうでない人もいると思います。

で、僕はこのようにわかってもらえないことをほかにもたくさん持っています。

だから社会の言う「わかり合う、共感、人と人とは通じ合える」なんて言葉を聞くと、吐き気まではいきませんが、僕には合わないなと感じてしまいます。

そこで僕は自分に言い聞かせることにしました。

「大丈夫。共感してもらえなくても、わかってもらえなくても大丈夫。」と言い聞かせるようにしました。

自分で自分を認めること。自分で自分を愛すること。

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そのうえで大切なのは、当たり前と言えば当たり前なのですが、

自分は、自分のことを認めてあげることです。

 

僕の場合で言うと、

  • 確かに誰にも話せないことあるけど、俺は俺のことわかってるから大丈夫。
  • 自分にしかわからない世界、自分にしか見えない世界があるというのは素敵なことじゃないか?
  • そりゃ確かに俺の理屈ならわからんわ。でもそれでも死ぬわけではないしおいしいごはんはおいしいしいいっちゃない??

などなどして自分を認める言葉を投げかけています。

そして人というのは究極的には自分で自分を完全に認めて、自分で自分を受容できれば、他者からの承認、評価は必要ないんですね。

 

そうなるためにももう一つ。

自分で自分を愛すること、これも欠かせません。

いつかのブログでも書いたのですが、

何か選択しなければいけないとき、何か迷ったときは、僕は自分に「自分を愛している人ならどうするだろうか?」と問うようにしています。

自分を愛するというのは、僕は練習次第で誰にでもできることだと思っています。

今回は省略しますが、僕が読んだ本で自分を愛するために有益なことが書かれている本をまたブログで紹介したいと思います。

 

他者に理解されないことがあっても大丈夫です。

それで死ぬわけではありませんし、不幸になるわけでもない。

しかし自分はそのことを認めてあげることは必要です。

 

 

今日のブログは以上です。

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!^^