「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

わかりあえないからこそ、些細な言葉でうれしくなる

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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 一言の共感でうれしくなる。

このブログを書いているのは3月30日の月曜日なんですが、

今日通っている就労支援で今後のことについての面談だったのですがその際に、うれしい言葉をいただきました。

「桂木さんはきっと理解されない苦しみってのを抱えてきたと思う。

自分も桂木さんのことを理解するのはできないけれど、理解されない苦しさというのはわかる。

桂木さんはその理解されなさをバネにしてすごく今しっかりされていてわからないなりに自分が描くビジョンへと歩をすすめている。

理解されない苦しみでもがき戦った人には人として深みが生まれる。

まだまだ若いし、きっと桂木さんの使命にあったことにたどり着ける。」

 

すごくうれしかったですね。

聞く人が聞けばただいい言葉投げかけられただけじゃん、という風に見えるのかもしれませんが、それが大きいんです。

僕が社会にでて感じていることの一つに、「がんばっても結果を出さなきゃ認められないのが社会という場所」という認識があります。

だからこそ今回のように、結果ではなく頑張っている過程を、もがき戦っている今この時を他者から肯定されるというのはこのうえない喜びなんですね。

 

僕は人と人は決してわかりあうことはできない、というスタンスでいます。

もっというとわかりあてるかどうかなんて「人のふるまいでしか判断できない」ということですね。

うなづいてくれたり、共感を示す言葉を投げかけてくれたり。

その時実際相手が共感していないのに共感したふりをしているかどうかなんて決してわからないわけです。そもそもそんなことを問うたってわからないのだから意味がないのです。

結局わかり合えるというのは、肯定をしめすふるまいをする程度のものでしかないんだなと思っています。

 

しかしだからこそ、実際に言葉をかけられ、肯定されると嬉しくなります。

実際にお相手の方がどう思ってるかなんて関係ありません。

ただ、こうやって言葉をかけてもらえる、そのことがうれしいんです。

 

生きやすさの秘訣の一つとして、僕は「相手を疑うより、信じる」ということが街が気なくあると思っています。

こうは言ってるけど本当は全くそんなこと思ってないんじゃないか、とか、

おべっか使おうとしているんじゃないか、とか、

そんなこと考えだしても決してわかりませんから。

それならそのまま素直に「ありがとうございます」と言えた方がお互いに気持ちよく幸せになれると思うのです。

 

些細な誉め言葉の力は偉大です。

 

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!^^