「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

生きてるという確かな手ごたえなんてそもそもない。ただ生きるだけ。

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

https://twitter.com/tigubagu0123

f:id:dotama-kotoba:20200329073909j:plain

<確かな手ごたえ>を追い求め続けた

僕は記憶が確かならば中学生になり始めたくらいからずっと「絶対」や「確かなもの」を追い続けていました。

もっと細かく書くなら、<自分が完璧に、100%納得できるもの>を追い求めていました。

僕は何分理解の悪い性分なもんですので、いろんなものに「世間でいう屁理屈、という名の自分の中での理屈」をつけていました。

 

中学になったころから小学生の時と比べて、急に勉強が難しくなってついていけなくなったってのも大きいとは思うんですが、どんなことに屁理屈を付けていたかというと以下のような感じです。

  • 数学の授業の時、絶対答えは決まるっていうけど、それほんとなのかな?悪魔にだまされてるんじゃないの?
  • 僕だけみんなとは全く違った風に言葉の意味を認識してて、それなのにたまたまコミュニケーションがうまく成立しているのかもしれない!
  • どうして人は、理屈を求めたがるのか。その理屈がほしい。
  • 英語と日本語なんて全く違うのにどうして「訳する」ことができるんだろう。そもそも言葉を別の言葉で表すなんてできるの?

などなど・・・

いや、これはほんとほんの一部にしか過ぎないんですが、

とにかく世間でいう正しいこととか、学問の正しさとか、に対して僕なりに理屈をつけて「でも、それは僕にとっては正しくないように感じるなあ・・・」ってなって<本当に僕が屁理屈つけることなく絶対に正しい、確かなもの>を追い求めていました。

 

自分の存在が不確かで不安でしかなかった

まあ、今もまだ追い求めてるっちゃ追い求めてはいるんですが、今の段階で過去の自分を振り返ると、とにかく自分という存在に絶対の根拠がほしかったんでしょうね。

俺はここに生きてるんだ!っていう生への渇望?欲求?、みたいな感じでしょうか。

 

いつもどこかモヤモヤしてて、すっきりすることなんて一度もなくて、頭もなんだか常に何かを抱えている感じがして、、

そして自分という存在がどういう人間なのかが全くわかりませんでした。

もちろん今もわかってはいないんですけど。

それゆえに、その時の僕は子どもなりに、世間や学問で正しいとされていることを自分で問い詰めてさらに追及すれば必ず納得できる地点が来る!

と信じ、その納得できたことを積み上げれば安心する、と思っていました。

 

しかしそんなことそもそも不可能なんですよね。

パッと考えてもわかりますが、たとえその完璧に納得できた!と感じても、本当に納得したの?とは問えますからね。

それにそもそも「完璧に納得した!」ってのもどうやってわかるんでしょうかね。感覚なんでしょうか。

こう考えるとよくわかりません。

 

自分なんて存在はそもそも不確かなもの

ここで一冊の本から文章を引用します。

引用する本は南直哉さんの『心が楽になる生き方』からです。

禅僧が教える心がラクになる生き方

禅僧が教える心がラクになる生き方

  • 作者:南 直哉
  • 発売日: 2017/07/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

「自分」とはなんでしょうか?

「体」かというと、そうではありません。体の細胞は、3か月もすればすべて入れ替わります。そうすると、それはもう「別人」です。

では「心」が自分かと言えば、これもまた証明できる話ではありません。

「”昨日の心”と”今日の心”が同じだと言える根拠は?」と尋ねられると、答えに詰まるはずです。

そもそも、「昨日の自分」と「今日の自分」が同じだと言える根拠は、2つしかありません。

それは、「自分自身の記憶」と「他人からの承認」だけです。

 

僕の記憶がもし仮に全部なくなったとしたら、それはもう「僕」ではない気がします。いやもちろん「僕」なんだけど、「桂木大輝」ではない、といった感じでしょうか。

そして他人からの承認は、もし明日周りの人間がすべて、僕のことを別人のAさんだと言い出したら、僕はきっと気が狂うでしょうね。それかAさんとして生きていくいくことを覚悟するかと思います。

 

そして続きにこう書いてあります。

大げさな話ではありません。そのくらい「自分」とはもろいものです。

私は「私」であるという記憶。

そして、他者から「私」だと認めてもらうこと。

この2つのどちらか、あるいは両方を失ってしまったら、自分であることの根拠は消え、「私」はその場で崩れてしまいます。

 

自分の存在の確かさを求めていた僕にとって、

そもそも自分の存在なんてもろすぎるほどもろいんだ、という文章はいい意味でかなり効きました。

そもそもが不確かなんですね。

これを知ってから、少しずつ世の中の事象に対し、モヤモヤしていても、そもそも自分の存在すらモヤモヤして不確かやけんな~、と思えるようにはなってきました。

言葉の確固たる意味も、絶対的な正しさも、たった一つの真理も、そんなものはあると思えばあって、ないと思えばないくらいの、人によって違うともいえるかもですが、すごく不確かであやふやな何が何だかわからないものなんでしょうね。

 

さて、生き続けよう

そうなると、もう後は生きるだけですね。

自分の不安や、モヤモヤや、恐怖や、生きづらさとともにこの生を全うすることが今の僕の課題です。

 

今日は以上です。

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!~~