「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

正しさを手放す勇気

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

正しさは安心をもたらす

「正しさ」にはいろんな効果がある。

スッキリするとか、人から変な目で見られないとか、安定しているとか、、

僕が個人的に感じる正しさの最も大きな効果は「安心すること」だと思う。

自分が何か、行動や考え方、なんでもいいけれどそれらに関して「正しさ」が保証されているとなったら安心感がわいてこないだろうか?

 

「正しさ」を求めるというのはもしかしたらだけど人の本能にもともと組み込まれている機能なのかもしれない。

学問でも、人間関係でも、人生の生き方でも、なんでもとにかく「正しさ」を追い求めてきた。

そこにはもちろん知的好奇心ゆえの探求ももちろんあるけれども、「なにが正しいかがわからないことへの不安」から正しさを本能的に求めている部分も必ずあると思う。

でも考えだすとわからなくなるんだ

僕はあまのじゃくな人間なのでなにかが正しいとされていても足りない頭ではあるが「それは本当かいな?」と考えてしまう。

いや考えていろいろと筋道を立てられるならまだいいがほとんどの場合はただ「それは本当に正しいのかな?」と疑って悶々としているだけのことがほとんどである。

 

そうやってそれは本当に正しいのか?と疑っているだけだととにかくわからないことばかりが周りに残っていった。

頭のいい人ならここから思考を深めることもできるんだろうけれど、あいにく僕は疑うだけ疑ってそれを掘り進める力はない。

わからないだけが残るんだ。

正しさに安寧できる人もいれば、そうでないひともいる

「これこれが正しいです」ときいて正しさを知れて安心する人もいれば、僕のように疑いをかけて安心しきらない人もいる。

どちらがいいとかわるいとかじゃなく、ただこういう人たちがいるということだ。

 

僕はずっと自分に正しさを追い求めるな、と言い聞かせてきた。

言い聞かせるというくらいだから実際は追い求めてしまっているんだ。

正しさを手放せるというのは強さでもあり、勇気でもあるんだろうな。

 

今日もよろしく。