「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

生き方不得意

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

 

なんでなんでもかんでもこんなに難しく考えてしまうんだろうか。

もっと簡単なはずなんだ。

感覚だけで、肩の力を抜いて、歩こうと思えば歩けるはずなんだ。

それなのになんで僕は一つ一つのことをここまでむずかしく受け取ってしまうのだろうか。

 

「こわいんだ。」

感覚で生きることが。のほほんと生きることが。

だからそういうことが起きないように事前に頭をフル回転させて考え込んでしまう。

他者から否定される、君それ間違ってるよと言われることを死ぬほど恐れている。

だから否定されないために、もしくは否定されたときの反論をするために、山ほど反論を用意して、自分は大丈夫、間違っていないと思い込みたい。安心したい。

自分には価値があって、自分の生き方は間違ってなくて、自分は大丈夫で、自分は魅力があって、自分は・・・・。

 

否定されることを恐れる人間にとって「正しい」という言葉はもはや凶器だ。

凶器であり、魅力でもある。だからいろんな意味でこの言葉の虜になってしまう。

僕もずっとずっとずっとずっとずっとずっと「正しい」に憑りつかれてきた。

振り払おうとも振り払おうとも自信のない自分を支えるために、自分から頼ってしまう。

 

「正しさ」の種類はなんでもいい。

数学的な論理的な「正しさ」

みんながそういうから、の多数決の「正しさ」

データや根拠から導かれる科学的な「正しさ」

お偉いさんがこう言うから正しいんだ、成功者がこう言うから正しいんだ、と権威的な「正しさ」

この場合はこうしなければいけない!というルール的な「正しさ」

普通はこうするよね、空気読める人ならこうするよね、などの空気的な「正しさ」

などなど・・

いろんな「正しさ」に僕は首を絞められている。

死にたくなった時の99%がこの「正しさ」に殺されそうになっているときだ。

 

「正しいか、そうでないか」じゃなくて、僕は「自分がそうしたいかどうか」で人生を生きることがとてもへたくそだ。

自分の感覚、直感を頼りにすることができず、「頭のいい人が打ちただした正しさ」に寄りかかってしまった代償はとてつもなく大きい。

 

「正しさ」を追い求めて、今の僕の毎日がとてもつらいものになっているなら「正しさ」を求めることは「間違っている」。

生き方不得意。

 

今日もよろしくお願いします。