自分の人生を肯定してくれる「何か」なんてない。不安を感じたらまず行動。
おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
おはこんばんにちは。
tigubaguこと桂木大輝です。
(https://twitter.com/tigubagu0123)
- 僕は極度の不安人間
- 自分の生き方はこれでいいんだ、と安心させてくれる「何か」がほしい
- 僕は「本」に求めた
- 読めど読めど、そんな「何か」は見つからない
- そもそも自分の人生を肯定してくれる「何か」は外の世界のどこにもないぜ、って気づいた
- 「何か」なんてない。ただ行動しよう。
僕は極度の不安人間
僕は極度の不安持ちです。不安しいです。
すぐに不安になります。すぐにびびります。
ここ最近このブログでも自分がどれだけ不安と向き合い、どのように対策をしているのかもずっと書いているのでもう知ってるよって方もいるかもしれませんが、とにもかくにも不安人間なのです。
自分の生き方はこれでいいんだ、と安心させてくれる「何か」がほしい
この不安はどうすれば取り除かれるのか。
思春期に入った中学生くらいのころからずっと考え続けてきました。
そこで出たのが、「そうだ、僕の人生を肯定してくれる『何か』を見つければいいんだ!」ってものでした。
その何かとは、人でもいいし、本でもいいし、音楽でもいいし、思想でもいいし、とにかく自分の人生はこれによって肯定されている!っていうものがほしかったんです。
僕は「本」に求めた
そもそも僕の不安の元凶は、「自分の思考や疑問を他者に否定された」ってところからきているので、生身の人間である他人に自分の人生の肯定を求めるのは無理だと決めつけました。
そこで、自分一人で探求できて、かつ他者性も(言葉としてのみだけど)しっかりと保持している本という媒体に人生を肯定してくれる何かを求めたのは、半ば必然的なことでした。
読めど読めど、そんな「何か」は見つからない
しかし読んでも読んでも自分が心の底から納得できる「何か」には結局で会えずじまいでした。
こういう若干中二病をこじらせた若者は哲学書に走りがちなんですが、僕もまさにそのタイプでした。
哲学書を読んで(読むたって難しすぎてわからないものがほとんどだったのですが)、「おお!俺と似たようなこと考えとうやん!」って部分を発見してひとまずは安心します。
しかしすぐに、「え、でも○○っていう風に俺は考えられると思うんだけどそうなったらこの理論は完璧じゃない、だめだ。」ってなって、また別の哲学書を読むんです。
「何か」を外の世界に求めてほんろうした日々は無駄とは思わないですが、ただただつらかったです。
そもそも自分の人生を肯定してくれる「何か」は外の世界のどこにもないぜ、って気づいた
そんな外の世界に「何か」を求めていると、やっぱり疲れてくるんです。疲れてくると、人間の本能がそうさせるのか、なんだかすべてのことがどうでもよく思えてくるんですよね。
その時にふと、「ああ俺の人生は正しくなくてもいいか」と思えたんですよ。
(このように書くと結構前のことのように感じるかもしれませんが、わりと最近の話です。)
学問的な正しさ、論理的な正しさなんてもうどうでもいいや。そこを他人に指摘されたからと言ってそれが何だというんだ。死ぬわけじゃない。大体そんなこと指摘するやつなんて数も少ないやろうし、いやなら距離をとればいいだけの話。何をびくびくしているんだ?
「何か」なんてない。ただ行動しよう。
どうでもよくなった僕がそのあと思いついたのは、「あとは行動するのみだ」ってことでした。
不安や恐怖も、その人生を肯定してくれる「何か」を求めるから不安になる。
そんなものはどこにもない。
なら一歩踏み出そうぜ?
ってな感じです。
とはいえ、僕も「理屈じゃわかるが頭がついてかねえよ!」ってタイプなんでまだまだその「何か」を追い求めたくはなります。ゆえにガンガン不安も感じます。
が、不安になる以上に今現在居場所つくりの活動、就労支援、このブログ、YouTube(最後にリンク張ってるんで見てね^^)を頑張っている。
行動を起こしている自分をほめ、その「何か」を求める誘惑から逃げ続けます。
それがいまのところ僕の人生の大きな目標です。
「何か」を求める誘惑から逃げ、行動を起こし続けるってことですね。
皆さんも一緒に一歩を踏み出しましょう。
今日も皆様の一日がよい日となりますように^^
ではまた!
Ps.もちろん哲学者や、趣味で(もちろんガチでも)「何か」の一部である、「正しさ」や「絶対」を追い求める人もいますが、そういう人たちはそれを求めることが楽しいんです。
だから苦ではないんです。
しかし僕は求め続けた結果、苦でしかなかったんでやめました、ってなことです。
僕のYouTubeチャンネル「tigubagu ch 」です^^