「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

「他人がみんなやっている」からといって、「自分はやる必要はない」って話

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

https://twitter.com/tigubagu0123

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 自分のことは自分で決める

当たり前ですが、自分の人生は自分のものです。

ほかの誰のものでもありません。

その人生において時間をどう使うかも自分の自由です。

 

しかしこの人生における時間の使い方ってのが本当に難しい。

ともすれば、自由すぎるってのは行き過ぎると恐怖にかわります。

皆さんも経験あるとすれば何もすることがない休日が長く続くととてもつらいじゃないですか、それと一緒です。

人は何かしらで縛られたほうが楽しく生きる、楽に生きるという面においては圧倒的にメリットがあるのかなと僕は考えます。

逆にいえば特に日本人はその縛られている部分でがんばりすぎちゃうからこそ燃え尽き症候群になりやすいのかな、とも思ったりはしますが。

 

しかし、とはいえです。

僕はこの「縛られている」っていうのと「自由」というのを比べたときに、圧倒的に「自由」がいいと思う人間なんです。

進路や自分の進む道や、将来のことを決められたくはない!

その分自分の頭で一つ一つ思考していかなければならないけれどそれでもがちがちに縛られるよりはましだ!っていうタイプなんです。

 

そして僕がもっとも嫌いなのが、「自分は縛られて嫌なことやってんだからお前もやれよ」ってタイプの人です。

自分がどのように、どんなふうに人生を歩んでいくかは自分の好きなようにすればいい、と考えている僕にとってこの考えの持ち主の人はとにかく苦手でしょうがないです。

 

学校に行かなくなった時も一定数やはりいましたね。

休み休みでもまだ教室に入れていたころに影口で「俺たちは来てるのに休んでずるい奴だ」みたいな感じのことを言われていました。

 

僕からすれば、本当に知ったこっちゃねえ!!って思うんですよ。

それだけいうならそういうあなたも学校を休めばいい、なんなら学校をやめて自分でこれからの生きる道を模索すればいい。

というか、そうやって主体性をもって生きていかないと僕の場合はなんのために生きているんだ状態になってしまうんで、主体性をもつしかなかったんですけどね。

 

おそらくこういうことを言う人の心理には、妬みや嫉妬があると思うんですが、より大きくは「不安や恐怖」、ほかには「怒りや苛立ち」でしょうね。

自分たちとは違うことをしている異質な存在に、どこかで苛立ちを感じていて、それをそのまま出すわけにはいかないから遠回しに「みんながやっているからお前もやれ」っていう風になるんでしょうね。

 

ですが、何度も書きますがあなたの人生はあなたのものです。自分の人生は自分のものです。

どのように生きるか、どのような信念をもつか、どう考えて生きるかはすべてあなた次第です。

 

こういうと、「お前はそういうけどお前が生きていくためのお金を出すのはお前の親じゃねえか!」っていう人も必ずいますが、これに関して知ったこっちゃねえってことなんですよ。

そもそもなぜ第三者がとやかく言うのかがわかりません。

家族の中で、家族がよしとしてくれるならそれでいいのではないでしょうか。

(逆を言うと、また家族がよしとしてくれないときは当人にとってはとてもつらいものとなります。だからこそ特にひきこもり状態にある子どもにとっては親が認めてくれるか、受容してくれるかどうかがとても大きなカギとなるわけです。)

 

また、先ほど「どのような信念をもつか、どう考えて生きるか」もあなたの自由、と書きましたがこれは特に自分自身に向けて書いた言葉です。

僕は再三再四このブログでは書いてますが、完璧主義です。(ツイキャスでリスナーさんが教えてくだった言葉で不完全恐怖症というものがあり、僕はどちらかというとこちらに近いかなと思いました。)

完璧主義の中でもとくに「論理的な正しさ」「絶対性」なるものに異様なまでにこだわってしまうのです。。

 

論理的な正しさや、絶対性というのは言い換えるなら「今のありのままの自分の考えをすててこちらの考えに鞍替えしなさい!!」って言われているようなもんなんですよ。

ですんで、僕は自分を大切にするためにはこの論理的な正しさにこだわることをやめる必要があると思いました。

しかしこれがまあ、なかなか難しいんですよね。

小学校からずっと、数学に始まる科目教育の中で論理的正しさや絶対性に埋もれる教育を受けてきて社会に出たら出たで社会の論理(考え)に合わせて生きることを余儀なくされる

そんな中で論理に正しさを求めず、自分の思考、考え、感情だけで生きるのは大変かもしれません。

それでも僕はゆくゆくは必ずこっちの生き方のほうが楽だと心から信じています。

それに最近少しずつ、自分の思考だけで立てるようにはなってきました。

もちろんそれは、正しさを求めすぎた故に自分を死にたいくらいまで追い詰めた過去や、自分の思考を良しとして生きていきたいとい強く望み続けそれのために読書や人の話をきたりした成果が少しずつ現れてきているのかなと感じています。

 

少し話が脱線しましたが、

僕はこれからも自分が生きやすい道を全力で選んでいきますので何卒よろしくお願いします^^!

 

今日も皆様の一日がよか日なりますように!^^

ではまた!