「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

メメント・モリ 「正しく」生きるな、「楽しく」生きろ

おはようございます。

tigubaguこと、桂木大輝です。

https://twitter.com/tigubagu0123

 

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僕の大切にしている言葉に

メメント・モリ

という言葉があります。

 

メキシコの言葉で、訳は「死を忘れるな」

 

僕は現在24歳です。

一般的にみればまだまだ長生きできると思われている年です。

 

実際僕自身も「100までは絶対に生きる」と決めています。

 

しかしそうはいっても、明日いきなり交通事故にあって命を落とす可能性も0ではありません。

 

人間ほんといつ死ぬかわからないんです。

 

 

僕は常に頭の中で、生きていく上ではまあ本当にどうでもいいことを、ああでもない、こうでもないと考えています。

考えようが、考えまいが本当にどうでもいいようなことをです。

 

それは言い換えるなら「不安」だからでしょう。

 

不安ゆえに僕は頭の中で考えるのでしょう。

 

人から批判されても言い返せるように、

真理、真実なるものを見つけてそれによりかかって、「絶対」の名のもとに安心したいがために、

自分が正しんだという気持ちにすがりたいがために、

 

僕は自分を苦しめてまで考えてしまいます。

 

しかしです。

こんなことをうだうだ考えていて、明日交通事故にあって死ぬんでしまったら、もはや何のための人生だったんだと僕は思うわけです。

 

だからこそ、僕は考えるのをやめたい、と強く願いました。

 

そこで思いついたのが、タイトルにもある通り、

 

「正しく」生きるな、「楽しく」生きろ

 

です。

 

正しさを求めていては本当に苦しくなるばかりです。

 

「正しさを求める」、「正しさのもとに考える」というのは僕の性格ともあいまって、とにかく僕を苦しめてきました。

 

論理的に絶対だ、と思われることでも、「いや本当にそうか?俺が思い違いをいているだけでは?」とか、

 

「絶対に○○しか考えられないけれど、○○以外も考えられる気がする」なんてことも考えていました。

 

それで、とにかくこの「考え攻撃」はただただつらいんですよ。

決して安心もしないし、幸せになれることもない。

 

頭がよくて、要領もいい人は、論理的に考えられるし、僕の持つ疑問すらも難なく「論破」できてしまうのでしょう。

 

が、論破されようが何だろうが、僕が疑問に感じていることは、事実なんです。

 

だからこそ、僕は「正しさ」を捨て去ることにしました。

 

正しさではなく、

 

「楽しさ」を追い求めることにしました。

 

楽しいという言葉にもあるように、楽しいってのは概して楽なんですね。

 

そのためのこつとしては、

感覚で生きるってことですね。

わけのわからない疑問も、もやもやもすべて僕なんです。

それはそれとしてそのままにしていていい。

 

しかし、そこから「このもやもやを解決しよう」とは思わないこと。

そのままにしておくんです。

そう、それ以上先は考えないこと。

 

考えなきゃやってけねえ!!って人にとっては、考えないってのは恐怖そのものだと思います。

 

僕自身もそうでした。

 

だからこそ、考えないってのは「強さ」なんです。

 

もやもやも、疑問もそのままにしておく。

で、楽しいことを考える。

 

人間本当にいつ死ぬかわかりません。

それなら少しでも楽しく生きたいじゃないですか。

 

僕ももっともっと楽しく楽にこれからを生きていきます。

 

今日もよろしくお願いします。

 

ではまた!