「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

自分のことは、言えないこと、言いたくないことばかり

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

 

僕は自分のことについて人に話せないことが多いです。

自分のこと、身体のこと、家族のこと、家族構成のこと、住んできた街のこと、本当にいろいろと話せないことが多い。

 

自分が障害を持ってます、とはようやく言えるようにはなってきました。

だけれど家族のことはまだほとんど人には話せません。

日常の会話で何気なく聞かれる、「仕事は?何人家族?学生時代はなにしてた?」などのテンプレ質問に答えられない(答えたくない、答える状態に心がなっていない)質問が腐るほどあるのです。

 

でもはぐらかしているとそれこそ「変な人」と思われて、誰も近寄ってこなくなります。あの人に聞いても何も答えてくれないとなります。

だから僕はぎりぎりの話せる範囲で「ごまかしながら話す」ことにしているのです。

しかしごまかしながら話しているとどこかでつじつまの合わない部分が出てきます。

そこで「あれ嘘ついているのかな?」と思われる。

まあ、実際には嘘をついている、よりも「嘘をつくしかない(そうでないと話せない)」んですけどね。

 

こういう場合に「君はいつも嘘ばかりつくね」という人が何人か今までにいました。

じゃあ、僕が勇気をもって言えたときに、勇気をもって自己開示できたときに、一切傷つけることなく受け入れてくれるのか、と僕は問いたいです。

そして「君はいつも嘘ばかりつくね」という人のほぼ全員が、勇気をもっていったところで受け入れてはくれないです。

なぜなら受け入れてくれる人は「嘘をつくよね?」という言葉をそもそも言わず、嘘をついていようが、正直に話していようが、どんな僕であれ受容してくれる人だからです。

そんな人はほんと片手で数えるくらいしかいませんが。

 

僕の自分の中にあるマイノリティー性と、僕はまだまだ折り合いをつけきれていません。

(なぜ差別されるのかもわかりませんが、)差別の対象になるマイノリティー性を持っているとそれだけで、僕は自分のアイデンティティがゆらいでしまう。

僕は何者なのか、理想の自分と現実の自分がずっと戦っている。

こうありたかった自分と、その理想の自分には決してなれない自分。

 

おそらく僕一人じゃもう無理です。

誰かとこの自分の抱えているものを共有しないと僕はいつまでたっても自分のことを人に話すことはできません。

だけれど、その共有できる誰かと出会うには、勇気をもって自分をその人に対してだけは開示しなければならない。

それはすごく怖いです。怖いけれど、必要なことです。

焦らずに(もう焦っているけれど。早くそういう人に会いたい)、共有できる人と出会える日々に向かって歩いていきます。

 

今日もよろしくお願いします。