「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

「学ぶ」ことは「問いが増えること」

こんにちは^^

tigubagu(https://twitter.com/tigubagu0123)です^^

ここ最近は待っているラーメンにとって代わる料理で、

「豚野菜炒めどんぶり」なるものがあります。

作り方はいたって簡単で、

①豚肉の細切れといろいろ野菜が入っているパック(100円くらいで売っている)を買ってくる。

②豚肉と野菜を中火で痛めて、鶏がらスープのもとをかける

③十分炒めたら、これらをご飯の上にかけて完成!

 

これがまああああじでうまい!

作るのも簡単!野菜も取れる!かなりおなか一杯になる!

いいこと尽くし、コスパ最高なんで、皆さんもよければぜひ一度お試しあれ^^

 今日のテーマ

さてさて今日のテーマは、、

「学ぶ」ことは「問が増えること」

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 自分でドストレートに言いますが、僕はかなりの数本を読みます。

 

そして本を読むたびにいかに自分が「何もわかっていないか、何も知らないか」を思い知らされます。

 

 

大前提として僕は本を読む前に「自分の中に探究したい問」が存在します。

 

まずは自分の頭でああでもない、こうでもないと考える。

 

その際には実際にペンをもち、ノートにぐちゃぐちゃと書きつける。

 

しかし所詮一般人の僕の頭で考え付くことなんてたかだか知れているので、先人のお偉いさんはどう考えていたのかと、文献つまり本にあたる

 

そのさい、哲学書を読んだことのある人なら誰しも経験あるとは思うのですが、とにかく書いてあることがまったくわからない。

 

それでその本をわかるために、別の本に当たる。

するとまた、わからないことが増えてくる。

 

本を読めば本を読むほどわからないことが増えてくるんです。

疑問の連鎖

問が一つわかりかけたかなと思ったら、その問に派生してまたすぐにわからない問がでてくる。

 

問を解明しようと本を読めば読むほど、学べば学ぶほどもっともっと問は増えてくる。

 

「なるほどなるほど。そのようなアプローチ方法だと確かに理屈は通っている。しかしそれならこっちのアプローチも通るんじゃないのか?」とか、

 

「うーん、この本の著者はこの考え方を提唱しているけど、俺はどうしてもこの考え方はおかしいと思う。しかしなぜおかしいと感じる?実際にどこかがおかしい?」などなど。

 

つまり、僕は学ぶってのは問を解明するという前提がありながら、その実、問を増やしていく作業、なんだと思いっています。

 

だから学ぶってのはつらく、時には怖くもなるものですよ。

 

なぜなら学べば学ぶほどわからなくなってくるんですから。

 

それを「面白い」と思えるか、「わからないなんて嫌だ!わかっていることだけでいい!」と思うかは人それぞれでしょうけど、僕は、

 

わからないけれどこれは大事ということをつかむこと、そしてそのわからないものにわからないままに正確に対処できるということ。いいかえると、性急に答えを出そうとするのではなくて、答えがまだでていないという無呼吸の状態にできるだけ長く持ちこたえるような知的耐性を身につけること(鷲田清一『哲学の使い方』より抜粋 最後にURL載せておきます)

 

この状態を目指したいので、どんどん学び続けていきたいですね。

 

今日一日もよろしくお願いします!