「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

「否定しない」 「受け入れる」 言葉ではなく態度でしめす。

こんにちは。

tigubagu(tigubagu0123)です。

GWも明日で終わりますね。

振り返ってみればあっという間だった!

前半はひたすらDVDを見て、

後半は友達が来て遊んでましたね笑

GW抜けたらどんどん暑くなるイメージがあるので熱中症対策忘れずに、ですね^^

 

さてさてそんなGW終盤の今日のテーマは、、

「否定しない」 「受け入れる」 言葉ではなく態度でしめす

僕tigubaguはとてもメンタルが弱いです。

まあ弱い。よわよわのよわ。

豆腐メンタル、ガラスの心じゃあらわせないくらいにメンタルが弱い。

しかしこんなメンタルの弱い僕だからこそわかることがある。

 

世の中には優しい人風を装って

「僕はあなたを否定しません、受け入れます」という人がたまにいます。

心が弱っているときほどこういう甘い言葉についつい誘われてしまう。

 

しかし実際に関わってみると

「あれ、、、なんだか変だな。全然受け入れられてる気がしない。しかもすごく否定されているし・・・・」ってな感じのことがこれまたとても多いんですよね。

 

そもそも否定しない、受け入れるっていうのは

言葉が先立ってあるのではなくて、先に行動ありき

ふりかえってみて「ああ、自分はあの人に受け入れられてるな」と感じるもの

 

だと僕は思うのです。

(もちろん組織のスローガンとして「どんな人も否定しないし、受け入れる」というのはあります。しかし個人個人の関係では先に行動ありきなんです。)

 

友達なんかもいい例ですよね。

友達がほしい場合、「友達をつくる」と言ったりしますが、

友達になろう!といって友達になれるわけではありません。

友達ってのはなんか知らないけど気がついたら、友達だなって感じるものだと思うんですね。

 

恋人もおんなじことでしょう。

「好き」と言って、または言われて好きになることってほとんどないと思います。

同じ時間を一緒にすごして、なんか好きだなって感じる、そういうものですよね。

 

逆に言うとそれだけ行動に起こす、態度でしめすことが難しいとも言えますよね。

 

そもそも他者を完全に否定しない、受け入れるなんてことは不可能です。

なぜなら自分と他者は全く別の存在だからです。

 

しかも自分の目にうつる他者は

「他者そのもの」ではなく、「他者の像」にすぎません。

 

つまり言い換えると

「自分から見た他者」しか受け入れることはできないし、本当の他者の姿はわからない、というわけです。

 

僕もよく経験あるんですが、表面上は「わかってもらえてる」と感じても、まだまだ心の中には「わかってもらえていない部分」が存在します。

が、同時にこの部分は決してわかってもらえないんだろうな、といういい意味でのあきらめもあります。

 

まずは態度でしめして、言葉はそのあとです。

 

振り返ってみると

僕も誰かのことを受け入れることができたことが果たして1度でもあるのか、ときかれると首を縦には振り切らないです。

やっぱりどこか自分の都合のいいように他者を解釈している。それゆえに他者との誤解もしょっちゅうです。

 

そのくらい否定しない、受け入れるってのは難しいんでしょうね。

みなさんはどんな時に自分は受け入れられたと感じますか?

 

今回は以上です。

また次のブログでお会いしましょう!

では!