「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

きれいごとしか言えない~他者への声掛け 自分の考えを話す~

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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 声掛けは基本きれいごと

困っている他者に声をかけるとき、

「大丈夫じゃないかな。今はつらいけどこれからさきいいことがあるよ」とか

「この苦しみにはきっと意味があるんだ」

と言っても、苦しみの渦中にいる人には「きれいごと言ってんじゃねえよ!」と受け取られる時が多いです。

じゃあ何も言わなければ言わないで、「何も言ってくれない」と言われることがあります。

実際僕自身がですね身近の人にこういった態度をまさに取っていました(笑)

 

改めて考え直した時に僕は他者に対する声掛けというのは基本的にどれも「きれいごと」だと思っています。

なぜなら僕はあなたではないからです。自分はあなたではないからです。

別々の他人なんですからその他人であるあなたに向かって今の苦しみを救うためのぴったりの言葉なんてかけられるはずがありません。

 

よく「自分の言葉で相手を傷つけてしまうかもしれない」と悩んでいる人がいます。

しかしどれだけ丁寧に思いやりをこめて話したとしても傷つくときは傷つきます。

逆に傍若無人に言いたいこといいまくっても「すごくいいこと言うね」とお礼を言われたりもします。

 

相手は自分とは違う他者なのです。

それゆえ自分の言葉で相手がどう感じるかなんて究極わかるはずがないのです。

わかってしまったらもうそれは相手は他者ではなく、自分ということになり、わけのわからないことになってしまいます。

 

きれいごとと一蹴される、と心配しても意味がないのです。

どうなるかなんてわからないのですから。

意見は言っていこう

相手がどう感じるかを心配し過ぎるあまり自分の意見を言えなくなることはとっても悲しいことだと思います。

悲しい以外にも、「もったいない」とか「残念」とかいろいろな言葉が入ります。

そしてこの空気大国日本では心の格の部分が「相手の顔色をうかがう」、「相手に変な人と思われない」とインプットされてしまっているので、ほとんどの人が自分の意見を言えなくなっています。

もはやここまでの空気大国になってしまったので日常生活でずっと自分の意見を言える人はまれでしょう。

 

しかしせっかく自分の意見を言える場であっても意見は言わない、言えない、今言っても大丈夫かわからないから言えない、という人もたくさんいるんです。

これは本当にもったいない!(この意見自体もきれいごとかもしれませんが)

空気大国日本の中で意見を言える数少ない場であっても意見を言えないというのは本当にもったいないです。

言いたくないことは別です。それは言わなくていいです。

しかし言いたいことがあるのに顔色を窺い、きれいごととはねのけられるのを恐れ、はたまた誰かを傷つけるのを恐れ言わない、というのはもったいないの一言でしかないです。

自分の意見が言える場所では意見を言ったほうがいいです。

相手に声掛けをしたいと自分が感じたならした方がいい。

 

なぜならそうやって意見を言うことで何も変わらないこともあるかもしれないけれど、多くの場合が意見を言うことによってほんの少し、ものすごく小さな変化かもしれませんが何か変化は起きるからです。

周りの人が自分にとっての理解を深めてくれるかもしれないし、

なんならきれいごとと言われずに自分の意見に大共感してくれる人もいるかもしれない。(大体の場合10人いたら1人はいます)

 

自分の意見を言って損をすることなんてほとんどありません。

仮に損をしたとしても(嫌な思いをしたとしても)、そんな損は小さなものです。

意見を言い続けるメリットの方が間違いなく大きいです。

 

それゆえにですね、これは僕自身にも常日頃言い聞かせていることはあるんですけれど、「意見を言える場では意見を言う」

これからも心掛けていきます。