「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

現実のカオスさに向き合うために

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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 「言葉」で見る現実のカオスさ

中学、高校で日本語でも英語でもいいんですが「文法」というものを習いましたよね。

今でも英語を勉強するときは文法が大切だと言われます。

文法通りに話すことが正しくて、言葉も辞書の通りに使わなければいけない。

 

僕はいつもこの文法に疑問を持っていました。

どれだけ文法書がこう書いてあっても、例えば英語ならネイティブの人で全然文保所通りに使わない人もいるかもしれんやん、と。

また特に日本でも方言なんかがそうですが、新しく住む場所の方言を耳で覚えて適当に使ってみたら全然通じる。しかし方言の文法書を見てみるとそんな使い方はしないと書いてある。

 

文法というのは、数人の頭のいい言語学者が「こういう風に使うんじゃない?」とその場で決めた決まりごとにすぎないんじゃないかと思います。

どれだけ文法通りに自分が話してると感じても、目の前には自分とは全然違った文法を使ってコミュニケーションをとってくる他者がいるかもしれないのです。

そして全然文法通りではないけれど、なぜか通じるという経験を皆様もしたことがあると思います。

意味も間違い倒してても、文法も無茶苦茶でも、通じるものは通じます。

(というか、僕自身自分が使っている日本語の文法が『正しい』とは思ってません。間違い倒しとうやろうなと思っています。だって感覚で使ってますから)

というか、そもそも言葉なんて、文法や辞書の意味なんて抜きにとにかくその共同体にしばらく身を置いていると勝手に話せるようになるものなんです。

 

しかし言語学やら学校教育やら、人間の理性やらは、「このなぜかわからないけれど通じる現象」を解明しようとします。

解明したと思ってもまたそうではない事例が登場します。

 

現実はカオスです。

人間の営み、社会の成り立ち、人々の行動の理由、さまざまな現象を言葉で説明しきろうとしても必ずその理論では説明しきらない事象が登場します。

それでも人々は考えてしまいます。頭を使ってしまいます。

それは僕が思うところに「わからないこと=不安」だからなんじゃないかなと思っています。

好奇心というのも、不安からくるワクワクなんじゃないかんと思います。

 

とはいえ、いくら頭でも考えても理解しきらないのがこの現実であり、この世界です。

僕自身も不安ゆえに常日頃とにかく様々なことを考えます。

考えても考えても現実には「そうではないこと」がいくらでも登場します。

さあどうしましょうか。

感覚、身体に任せてみる ただ生きてみる

自分がなぜ日本語を使えるのかがわかりません。

「私『は』歩く」と「私『が』歩く」の「は」と「が」の違いがわからず、インターネットや書籍で調べてみても、いまいちしっくりきません。

そのしっくりこないというのは「確かにその通りの部分もあるけれど、なんかそうじゃない部分もあるというか、そうじゃなくてもいいというか。どっちもいけるというか。」というモヤモヤしたものです。

 

しかしモヤモヤしたままでも実際僕は日本語を使えます。

文法的に正しいかどうかは知りませんが日本語を使って不自由なく生活をしているんです。

文法的に考えたら間違っていると思うことでも、感覚的に通じるなと思うことはいくらでもあって、実際通じています。

通じていなかったとしてもそれもまた現実です。別に死にはしません。

 

頭ではいろいろわからないがうごめいていても、身体は日々生きるための技法をわかっているのです。

なぜ?どうして?頭の中にはこういった疑問がたくさんありますが、それでも体はただ生きるために日々活動しています。

 

今回は言葉を例にあげましたけれど、人間関係でも、日々の生きづらさでもなんでもそうです。

そういった日々のわからないことを言葉で説明しようとしても必ずわからない部分がまた出てきます。

そういうときは僕は感覚に任せ、ただ生きる、を心がけています。

 

現代は情報超過多の時代で、誰が見ても考えすぎの時代だと思います。

もちろん考えることはいいことです。しかしそれが度を越して自分を苦しめていたら話は変わってきます。

身体の感覚に任せ、ゆらりとただ生きてみる。

言葉ではなかなか伝わらないかもですが、僕はとりあえずこの言葉を心で念じるだけで体から力がふっと抜けていくんです。

 

カオスを生きるためには流されるのがいいのかもしれない。