「人生を棒に振るつもり」で生きる
おはようございます^^
こんにちは。こんばんは。
tigubaguこと桂木大輝です。
(https://twitter.com/tigubagu0123)
南直哉著『禅僧が教える 心が楽になる生き方』より以下の部分を引用します。
少々長いですが読んでいただけると幸いです。
「本当の自分」、「ありのままの自分」とは一見何のとらわれもなく心のままに生きられる、ひとつの理想像のように思えるかもしれません。
しかし、誰が、何を基準に、その自分が「本当」で「ありのまま」だと判定するのでしょうか。
私にはそれがよくわかりません。
結局は、「本当の自分」「ありのままの自分」になるために、記憶と「他人の承認」の中をさまよいながら、「自分はこれでいいのだろうか」と葛藤しているだけになるでしょう。
(中略)
今見ていると、どんな人も非常に力が入っています。
「よりよい人生を生きなければならない」と思い込み、「人に勝たねばいけない」と焦っている。
「得をしたい」「ほめられたい」という欲もある。
だから力んで、仕事に、余暇の充実にとがんばってしまう。
スケジュール帳がびっしり埋まっていないと不安になってしまう。
さぞくるしいだろうから、力を抜いて「大したことのない自分」を生きればいいのにと思います。
(中略)
しかし本当のことを言えば、無理をすることもない。
大抵のことはやり過ごしてもいい話なのです。
死ぬ間際になれば、大したことは残っていません。今ジタバタしている問題について思い出したりもしないでしょう。
人生の最後に一生を振り返った時、おそらく「多少の満足」と「いくつか後悔」が残るのが普通です。
人生を”棒に振る”くらいの気持ちで生きれば、ちょうどいいのです。
僕たちは生まれたときからほぼ全員の人が「将来は何になりたいか?」ときかれ、「1度きりの人生をやりたいことをして過ごさなければならない!」、そして「人生は充実させてなんぼだ!」という半ば強迫めいた思い込みを植え付けられます。
実際幼少期のころになりたかった自分、つきたかった職業についている人はほんの一握りでしょう。
そしてよりたちが悪いのが、人生を充実させなければ!と充実している他者と比較し、自分の人生を否定し、焦り、自己嫌悪に陥ることです。
もともと充実しているかどうかなんてのはその人次第であり、周りがとやかく言うことでは決してありません。
それなのに現代は「これが充実している人の人生ばい!」てな感じで充実している人のイメージ像を社会側が勝手にこしらえているんですよね。
そしてその充実している人生になっていない人はダメで(もちろん直接的に表すことはありませんが間接的に)、その人生には価値がないと思わせてしまうんですね。
僕はこんな現代だからこそ引用した南さんの言葉の「人生を”棒に振る”くらいの気持ちで生きれば、ちょうどいいのです」という言葉にすごく救いに近いものを感じたんです。
人生なんてのは、ゆるく、棒に振るくらいが楽に生きるにはちょうどいいんだなと。
とくに僕は根詰めて何かをやろうとすると視野が急激に狭くなってしまうのでこのような気持ちにゆとりを持たせてくれる言葉の効果は大きいです。
そして「人生を棒に振ってもいいや」というのはある種の覚悟だとも僕は思うんですね。
人生を充実させなければ!と力んでいると失敗を恐れるあまり、それこそ自分のやりたいことに挑戦をすることができません。
失敗してもいい、もっというと失敗は必要経費くらいにとらえてガンガン挑戦したほうが僕は楽しいです。
別にそれが大きいことであろうと、小さいことであろうとそんなことは関係ありません。
自分がやりたいことをただやる。それだけです。
それをする上でも、ま!最悪人生棒に振ってもいっかあ!と割り切れるのは挑戦するためにはすごく楽になれる思いだと思います。
楽に生きることが僕は楽しさにつながると思っているので、これからもゆるく生きていきたいと思います。
人生を棒に振るくらいのつもりで生きると、楽になれます。
今日のブログは以上です。
今日も皆様の一日が良き日となりますように^^
ではまた!^^