「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

自分を表現することができない。

おはようございます。こんにちは。こんばんは。

おはこんばんにちは。

どうも、tigubagu(https://twitter.com/tigubagu0123)です。

ここ最近、とにかく時間があってずっとDVDを近くのレンタルビデオショップから借りてきて見ている毎日です(いや時間あるならブログ書けよ!)。

自分結構B級映画を見るのも好きなので、よく見るのですが、立て続けにB級映画を5本くらい見た後に、ハリウッド映画を見るとそのクオリティの違いに驚嘆しますね。

やっぱり有名どころの映画はクオリティもすごいと、身をもって実感しました。

 

さてさて、今日のテーマは、、

自分を表現することができない。

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こういうタイトルを書いた割には、

「自分を表現することはできない」ということは、ブログで公言するんかい!って感じなんですけど、まあそこはいったん置いといて。

 

僕はとにかく自分をどう表現すればいいかでずっと悩んでいました。

 

というのも、やはりそれは過去の「自分を受け入れてもらえなかった」という経験が大きいでしょう。

(いかに僕の過去のことを紹介している記事を貼っておきます。)

 

www.dotama-kotoba.com

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「自分を表現する」とは、「自分が本当に言いたいことを言う」ってことですね。

 

それが本当にできない。

 

過去に親、教師、同級生など、自分の周りの人たちに自分の考えや、信念を話すと「何言ってんの?」、「頭おかしいんじゃないの?」、「え?メンヘラ?」などなどさんざんに言われたので、それが今も尾を引いているという感じでしょうか。

 

それゆえに、今でも人と話すとき。明るい自分を振る舞い、決して悩んでいるようには見せず、何でもそつなくこなす人間を振る舞ってしまうんです。

怖いんです。人に自分の本音を出し、それをあしらわれるのが。

 

かと思えば、僕はこの人なら僕のことをわかってくれる、という人に向かってはとにもかくにも「理解されたい」と願い、相手に詰め寄ってしまいます。

 

かつて友達に言われました。

「tigubaguは認められたいという気持ちが強すぎる。俺の周りでここまで認められたい、って願ってるやつはいない」

 

その通りです。

僕はまだ過去のまわりから否定されていた自分を、自分自身で受け入れる、認めてあげることができていないんです。

 

Twitterで知り合った方が、アダルトチルドレンの話を教えてくださり、まさにその通りだと思いました。

正確に言うとずっとアダルトチルドレンインナーチャイルド等言葉としては知っていました。

しかし僕がそれらにあてはまるはずがない、と勝手に決めつけていたんですね。

 

実際お話を聞き、いろいろと調べたらまさにこれらは僕そのものでした。

 

今現在僕は、まずは本を読むことから始めてみようと思っています。

アダルトチルドレン、トラウマの癒し方などの文献にあたり自分の内側からアプローチしていこうかと思います。

 

そしてそれができ、少しでも話せると思えば、今現在利用している支援センターの方々に話していこうかと思っています。

 

長い道のりではありますが、ゆっくり歩いていきたいと思います。

 

今日もよろしくお願いします。

 

ps.

「自分を表現できない」というのは、僕の体感としてはそこそこの数の人が感じていることなんじゃないかな、と思っています。

 

日本はとにかく、対話や議論を好まない文化です。

 

僕の考えがおかしいとするなら、なぜそうなのかと言ってもらえればいいのですが、そうではなく頭ごなしに否定される。

反論や、違う意見を提示されたら、僕もそれらに対してまた新たな自論を提出します。ただそこで対話、議論をすればいいだけなんです。

(議論よりは、まずは対話のほうがいいですね。対話はまずはどんな意見でも受け入れるというスタンスですから。)

 

今は日本でも哲学カフェをはじめいろいろなところで対話の場が増えてきているのは僕はとてもうれしく思います。

 

それがもっと日常レベルになって、どんな人でも対話に参加できる社会になるにはもうすこし時間がかかりそうです。