「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

自分を不幸と思わない

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguです!!

自分を不幸だと思うとどんどんそう思ってしまう

夜眠る前に自分の人生でつらかったこと、うまくかなかったこと、そして思い通りにならなかったことがつぎつぎと頭の中を駆け巡る。

そして具合が悪いとそのネガティブの渦に巻き込まれてしまいどんどん自己憐憫(自分を不幸だと思うこと)は大きくなる。

あげく、なぜ僕の人生はこんなにも不幸でいっぱいなんだあ!と思い始める。

そしてさっさと眠ればいいものを、自己憐憫でいっぱいになった頭をなんとかしようとああだこうだと悩み始める。

 

自己憐憫、自分を不幸だ、と思ってもいいことは何にもない。

本当に何もない。

生きる活力は削がれるし、物事に対するやる気は極限までなくなるし、周りの人もどんどんさっていくしで、1億害あって1利益なしだ。

自己憐憫に陥るくらいなら、まだ何にも考えずちゃらんぽらんしているほうがましだ。

 

だけれどそうはいってもなかなかやめられるものじゃない。

僕もこうやって書いているけれど四六時中「自分は不幸だ」思考に捕らわれる。

ポジティブシンキング、じゃなくても、目の前のことを一つ一つ

かといって自己憐憫をやめるために無理やりポジティブに自分のことをとらえて「自分は最高なんだ!!」と言い聞かせるのはとても無理な話だ。

そうではなくて、自己憐憫に陥りそうになったら、いったんそのことは脇において、目の前のやることを1つずつやっていくこと、これを僕は大切にしている。

「いったん脇におく」ってのもなかなか難しい。

いくら目の前のことに取り組もうたって頭の中は自己憐憫でいっぱいなときはしょっちゅうある。

そんなときは頭の中の自己憐憫はラジオやBGMが流れるようにそのままにしておく。

そして身体はやることをたんたんとやりつづける。

いくら頭が自己憐憫でいっぱいだろうと、それで身体が爆発するわけじゃない。

自己憐憫に頭は支配されても、行動を支配することはできない。

 

寝る直前の自己憐憫はとてもやっかいだけれど、そんなときは1度起きて読書に集中するようにしている。

30分も読書をしていれば眠くなる。僕の場合。

 

最後にこれはほんと僕個人の考えだけれど、

着る服があり、毎日きちんと食べられる食べ物があり、きちんとした住む家があるなら、少なくとも「不幸」ではないと思う。

もちろんこの3つを得るためには日々仕事をがんばってお金を得なければいけないけれど、それでも僕はこの3つが少なくとも今あるなら不幸ではないと思う。

いうなれば、「自分次第でこの3つが手に入る」世界にいるということがすでに大きな幸福なんだ。

比べるわけじゃない。決して比べるわけではないけれど、広い世界には仕事をしたって、いくらがんばったって、この3つがろくに手に入らない世界はいくらでもある。

 

衣食住が現に今手に入っているなら、そのほかいろいろつらいことはあったとしても、「不幸」ではない。

つらい人生かもしれないし、大変かもしれないが、この3つがまずあるうちは不幸ではない。

人間関係による不幸、家族関係での不幸、仕事での不幸、そういった個別具体的な不幸はあっても、人生全体で見たときに、その人が絶対的に不幸かと言われるとこの3つがある限り僕はそうではないと思う。

 

だから僕も自己憐憫につかまり、幸せそうに見える人をうらやみ、自分を不幸だ!とののしりたくなる時はいつも今ある環境、今ある「衣食住」に心から感謝している。

 

今日のブログは以上です。

今日もよろしくお願いします。