「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

努力を努力と思わないこと/そもそも努力をしないで継続すること

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguです!!

 

 「俺こんなに頑張っているのに!」が満たされぬ承認欲求を生む

自分の行動を「努力」とみなした途端、「頑張っている⇒報われるはずだ」の論理式が顔を出してくる。

しかし努力は当然だけれど、報われることもあれば、報われないこともある。報われないことのほうが圧倒的に多い。それに報われるにしてもそれ相応の報われない期間を必要とする。

だから僕は自分自身の行動に対して「努力をしている」と思わないことにしている。

「努力をすること」は「達成したい目標」に対しての手段であって、間違っても努力すること自体が目的ではない。

 

僕の場合だけど、僕は「努力しているのに!」と思ってると承認欲求が僕の心の中で大暴れを始める。

今はSNSは一切やっていないし、極力無駄な情報からは距離を置くようにしているの以前ほどは承認欲求はしげきされないが、少し前はそれこそすごかった。

自分が「頑張っているんだ!」ということをこれでもかと周りに知らしめたくて、そして自分にも「頑張ってんだから大丈夫!」と言いきかせたかった。

周りからすれば知ったこっちゃねえって話なんだけど、そんなことを思う余裕はなかった。

 

努力は手段であって目的ではないし、なんなら「努力をしているのに!」という気持ちに振り回されるくらいなら努力なんてしなくていい。

頑張らないで済むならそれに越したことはない

努力しないで済むなら本当にそれに越したことはない。

もっというと、努力しないからこそ自分のペースで続けることができる。

「努力」ってのはどこか車で言うところのアクセルを前回に踏んで前進しているイメージがある。

常にアクセル踏みっぱなしじゃ曲がり角を曲がれないし、なにより一瞬でガソリンがきれてしまう。

長距離を走り続けるためには一定の速度で、なるべくゆっくり、安全運転で行くのが一番だ。

 

ここ最近のブログで書いているけれど、

努力しないでも継続さえしていればなにかは身につくので、僕はもう無理して努力しないようにしている。

逆に言うなら、「あ、俺努力してるな」と感じた時が休み時ってことだ。

全部自分のためです。

努力するのも、しないのも、全部自分がどう成長するかに関わることだから要は自分で選ぶことが大切。

自分で選択して、自分がどうなっていきたいかを考えれば、「自分」と「努力」との付き合い方もおのずと見えてくる。

 

今日もゆるくいきます。

今日もよろしくお願いします。