「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

わからんことだらけなもんでね

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

 

「どうしてあの人はあんなことを言ったのか」

「どうしてうまくいかないのか」

「どうしてそんなにも不安を感じるのか」

自分のことでわからないことだらけ。

考えたところでいつも空をつかむ感覚にさらされる。

 

学校教育による「答えを出すことが絶対的に正しい価値観」にさらされつづけたせいか、答えが出ないという(ある意味では)不安定な状態ではいられなくなっている。

「わからないことがある→即解決せねば」と訓練されてしまっている。

以前にも僕はブログにも書いたけれど生きるということは言い換えるなら「わからないことの連続体」だと考えている。

その数はまさに無数。一つ解決したかと思えばまた次の「わからない」が襲い掛かってくる。

だからわからないを嫌い、とにかくわからないが表出するたびにわかるに変えることを義務付けてしまうといつまでたっても終わりがない。

もちろん「わからないをとにかくわかるに変えたいんだ!」という人はそれはそれで全く構わない(別に僕がこうして書くほどのことでもないけれど)。

だけど僕のようにとにかく「わからないことが不安でとにかくわかりたい!」という人は「わからないとともに過ごす生き方」を試してみてもいいんじゃないかと思う。

 

学校教育の訓練の影響もあるけれど、もともと人間ってのはわかりたい生き物なんだ。

なぜなら大昔原始人の時なんかは隣の人間がもしかしたら自分やその家族を殺害しようとしているかもしれない。

それがわからないのと、わかっているのとでは天地の差だ。

だからもともと人間の遺伝子にはわからないことよりもわかることに快感を感じるようプログラムされているのだと思う。

 

だけれど、今はもう太古の時代ではない。

わからないことがあっても即死にはしない。

逆に今はなんでもかんでもわかろうわかろうとし過ぎて社会全体がとてもあわただしい。

知ろうとしなくてもいいことまで知ってから、勝手に自分でわからなくなって不安を作って泣きわめいている、僕の目にはそう映る。

 

「わからないとともに生きる」ってのは、「平穏に落ち着いてゆっくり生きる生き方」ともいえるかもしれない。

 

今日もよろしく。