「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

怒りは誰にとっても損害しか生まない

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

 

今日駅のホームで大きな声でスマホで電話の相手に怒鳴り散らしている人がいた。

ホーム中にその怒声は響き渡っていた。

誰一人としていい気分をした人はいなかっただろう。

 

僕は「怒りは誰にとっても損害しか生まない」と思っている。

例として誰でもいいので「怒っている人」と「怒られている人」を想像してみてほしい。

 

まず今回の僕が駅で見た怒っている人の状況と同じく、「怒る」という行為は周りにいる人が軒並み嫌な気分になる。

「いや自分は人が怒声をあげて怒ってるところ見るの大好きなんですよお!」という人は今回は視野に入れていないので、基本的に10人いれば10人人が怒っている場面には遭遇したくないと言うだろう。

 

これが会社や学校でも、一定の範囲を持った共同体の場合、それだけでその共同体の空気は悪くなるし、それのせいで生産性も落ちるし、今度は自分が怒られるかもしれない、とみんながびくびくすることにより仕事に集中できなかったりして、怒っている側からすれば余計に怒りのタネが増えるだけである。

 

そして次に怒られている当人にしても「怒る」という行為は損害しか生まない。

大体相手が感情に任せて怒り散らかしているときに「ちゃんとこの人の言うことを聴いて次からは気をつけよう」などと冷静に思えるだろうか。

ほとんどの場合は「はやくこの怖い怒り収まってくれないかな」っていう類の感情が沸き起こってくると思う。

もちろん中には「これだけ怒らしてしまったのは本当に申し訳ない!次から気をつけよう!」と思える人もいるかもしれないけれど、だいたいこのような場合というのは怒る人、怒られる人にそれなりの信頼関係がある場合が多く、そして信頼関係がしっかりしていれば矛盾的だが怒鳴り散らかして怒るなんてことは起きにくい。

つまり大体の場合怒り散らかす現象が発生するのは信頼関係がロクに気づかれていないうえでのことなので、怒られている側にとって怒鳴り散らかされるというのはただただ苦痛でしかない。

 

そして最後、怒っている張本人。

僕も感情に任せて怒ってしまったことがある幼稚な人間なのでわかるけれど、だいたい声をあげ怒っているときってもはや自分が何で怒っているのか、怒ることによって何を伝えたいのかがわかっていない。

ほぼすべての場合が「怒ることによるストレス発散」これに尽きると思う。

というかストレス発散以外の理由でたった1つのミスを何十分と怒りまくれる理由が見つからない。

 

本当に相手にミスを治してほしければ冷静に「○○だから今後は□□しないようにね」と伝えるのが一番伝わるのではないだろうか。

怒り散らかして相手の行動が正せると思ってるならそれは大きな間違いだ。

怒りではだれのことも動かすことはできない。

 

もちろん人によって考え方は全然違うから「怒りは必要だ!」と考えている人もたくさんいる。

だけれど僕は怒りを感じたときに、そのまま感情をストレートに表に出して怒り散らすというのはどう考えても損害しかないように思う。

 

皆さんはどうだろうか。

 

今日もよろしく。