「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

思い込みの力

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

 思い込みの力はすごい

思い込みの力はすごい。

根拠がなくてもできると馬鹿みたいに思い込んでいるだけで実際にできる。

「変なやつと思われていないかな」とびくびくしていると余計に変なやつと思われる。

 

思い込みに与える幼少期の環境の影響はとても大きい。

幼少期に親の顔色ばかり窺い、ひたすら親を怒らせないようにすることだけに徹していると大人になってからも常に人の顔を窺い生きるようになってしまう。

親に「お前は何をやってもダメだ」と言われ続けると、ずっと何をやってもダメと思い生きていくようになる。

実際はダメかどうかなんてのはやってみるまでわからないのに、だ。

 

僕は幼少期から親が条件付きの愛情しか与えてくれなかった。

厳しい学習塾に通わされ、テストに点数がよければ褒めるが、それもつかの間。次はもっと頑張れとなる。

点数が悪いときは、親は(とくに母親)パニックになり塾の人間にすぐさま教育相談と言って面談を申し込んでいた。

塾も厳しかった。とにかく正解しろ!間違いをなくせ!できるようになれ!とたたき込む塾だった。

だからか今もいびつな形で「常に正しくあらねばならない」という思い込みが僕の心にべっとりと張り付いている。

 

この思い込みってやつはとっても強力で一度ついてしまったらなかなかとりはがすことができない。落とすことができない。

僕も日々新たに思い込みをアップグレードしようとして本を読んではいるけれど昔からの思い込みの前ではなかなか歯が立たない。

現実はただそこにあるだけ

思い込みがどれだけ強かろうが、過去のトラウマに苦しめられてマクラを濡らそうが、現実はただそこにあるだけである。

どれだけ自分の心の中で「お前は正しくあるべきだVS自由に生きたい!」が戦ってベッドの上で悶々としていようが、現実はただそこにあるだけである。

どれだけ心が葛藤していようが現実はベッドの上でただ横になって悶々としているだけである。

 

正しく生きようが、間違って生きようが、どちらにせよ生きていかなければいけない。

例えば、仮に僕の言葉で言う「間違って生きる(自由奔放に生きる)」を選び自分の好きなように生きたとしよう。

その場合自分の思い込み通り正しく生きてないがゆえに困る場面はあると思う。

しかしそれと同じく、自分の好きなように生きたからこそ得られる喜びや幸せも間違いなく存在する。

 

思い込みに縛られて生きても、縛られずに生きても、このさきどうなるかなんてのは決してわからない。

ただ一つ僕がわかるのは自分を苦しめる思い込みは持っててもいいことはないってこと。

「ただ生きる」というのがこんなにも難しいとは

生まれたての赤ん坊、2,3歳の子どもたちを見てるととにかく自分の喜怒哀楽をはっきりと表現する。

スーパーなんかで時々とんでもなく大声をだして走り回っている子どもを見かけると羨ましくなってくる。

彼らはただ生きるということを楽しんでいるんだなあ、と感じる。

社会的に要請される振舞い、社会人たるものこうしなければいけないという縛り、正しく生きなきゃなどの自分を苦しめる思い込み、こういったものに一切縛られることなく自由なんだ。

 

これからこの子たちもこの国に住むほぼ全員が通ってきた道を通るのだろう。

「これはダメ」、「あれはいい」、「こうすれば褒められる。認められる。」、そうやって世間の皆様に認められる人になるためにたくさんのしがらみを背負う。

ただ感情のままに生きることができなくなってしまう。

 

ただ生きることをこの国で再びすることはできるのだろうか。

できるかどうかはわからないが、僕は「ただ生きていきたい」。

自分の感情だけを頼りに、それだけに従い、感情のまま生きていきたい。

 

今日もよろしく。