「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

自分ができることを一つ一つ

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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 孤独はなくならない

就労支援で目的に向かってひた走っているときは孤独を感じないけれども、土日何もない日が2日続いただけで強い孤独を感じてしまう。

 

鴻上尚史さんの『孤独と不安のレッスン』にも書いてあったけど、本当に孤独も不安も増えることはあっても減ることは一向にない。

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

  • 作者:鴻上 尚史
  • 発売日: 2011/02/09
  • メディア: 文庫
 

 

(最近は以前よりも昼夜逆転がましになってきているので太陽が昇る前には眠ることができています)

夜ベッドに入るとまちがいなく孤独と不安が襲ってくる。

胸の胸板のところがきゅーっと締め付けられて痛くなる。

さすってやるとましになるのでずっとさすっている。

頭の中は「これからさきどうやって生きていけばいい」ってことばっかりだ。

ディテールは変わっても大本は「これからさきどうやって生きていけばいいのか」に集約される。

 

孤独と不安が大きすぎて手に負えないときは起きて机に向かい何でもいいから本を読むようにしている。

が、深夜の読書はほとんど頭に入らずただ字を見ているだけということがほとんどだ。

 

本当に孤独と不安は消えない。

「認められたい」とのお付き合い

孤独と不安が常にあるせいか「認められたい」って気持ちも常に持っている。

承認欲求っていうやつかな。

でも、承認欲求ってキーボードで打って感じたけどなんか僕の「認められたい」ってのとは少し違う気がする。

僕の認められたいってのは「甘えたい」とか「何気ないことを話して共有したい」とかも含んでいる気がする。

 

この認められたいともかなりの年月付き合っている。

自分が人に認められたい!って強く意識し始めたのは高校2年のひきこもりになったくらい。

で、そのあと大学進学で一人暮らししてそこからもっと大きくなった。

 

寂しさを感じると認められたいもそれに比例して大きくなるのかもしれない。

寂しさ以上に大きいのが認められたいってのは、自分に自信がないってことの表れだな。

とにかく僕は自信がない。

もっとかくと自身がない、ともいえる。

いつも人の目を気にして、肩がグッとせりあがって、常に肩こりしている状態。

人の目を気にして、迷惑かけないように、我がまま言わないようにしていると「自信も自身」もなくなってった気がする。

言葉通り「我がまま」がわからない。

 

認められたいにはキリがないから余計に性質が悪い。

一番は自分で自分にこれでOKと言えることなんだろうね。

シンプルに考えたら「自分がどう感じるか」を大切にするだけでいいんだろうけどね。

夜が過ぎれば朝が来る

眠れないときほど(ほぼ毎日だけど)こんな地獄がいつまで続くのかと思ってしまう。

いつ終わるんだ!なんでこんなにもつらい時間は長いんだ!と暗闇に向かって叫ぶ。(実際叫ぶ)

 

でも冷静に考えたら今は夏ってのもあるけれど4時30分をすぎたあたりから太陽は出てくる。

暗闇も終わる。

太陽の力はすさまじくて夜にあれだけ不安だったのが太陽の光を浴びるだけで一瞬で消え去る。

昔の人たちが毎日次の日も太陽が昇ってくるかどうかを心配したのもよくわかる。

 

どんなことも終わりは必ずやってくる。

仮面の下にあるもの

空気を読んで思ってもないことを言う経験って誰しもがあると思う。

もう誰が本当のことを言って、嘘を言っているかわからない。

みんなの”本当の”顔がわからない。

みんなはどこに行ってしまったのだろうか。

小さなデジタル機器の中にあるのは人じゃなくて、複雑な無機質の機械だけだ。

 

僕自身も自分が実際どういう感情をしているのか、とことん考えてみればほとんどのことはわからない。

嫌なのか、うれしいのか、好きなのか、嫌いなのか、楽しいのか、悲しいのか、、

 

他人の言うことを聴いて、他人の命令に自分を合わせ、他人が追い求めるものを求め、他人が認めてくれる文章を書き、他人が認めてくれるふるまいをする、

そんなことをしているうちに「自分がどう感じ、何を思っているか」ってことがわからなくなった。

今の自分の悩みは自分でこしらえた悩み、というよりは周りの人と生きていくうえで勝手に作られたっていうのがいいかもしれない。

人と比較させるだけさせておいて、途端に個性が大事!と言われても、もうなんのこっちゃわからない。

 

「教える側が正解を知っている」という構図が今も昔も大嫌いだ。

「1+1=300でもいいと思います」

「君はそれで生活するのか?」

「いえ、生活とかではなくて、ただそう思っていたいんです」

「実際のふるまいに関係ないのに1+1=300だなんて思っても意味がないだろう」

「意味があるかどうかより、自分が思っているかどうかの方が大事では?」

「君の言っていることがよくわからない。」

 

自分でも自分のことはわからない。

それならいっそわからなさを基盤にすればいいのでは?

わかる!っていうのは人間側が勝手に複雑な世界を理解したつもりになっているだけのことかも。

それならわからないをベースにして、のんべんだらりしたほうが楽な気がする。

誰かひとり、たった一人にでも届いてくれればそれでいい。

誰でもいい。

誰か一人でも、「面白いね」、「素敵だね」と言ってくれる。

それだけで僕は生きていける。

 

「一人」ってのは人数的なことじゃなく、もっと不可思議なもの。

でも書くとしたら一人になるかな。

 

 

ではまた明日。