「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

がんばることを目的としない

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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 「頑張ることが当たり前」ではだれもいい思いをしない

頑張っている人が認められるわけではないですが、頑張っている人がえらい、すごいという風潮があります。

風潮ですめばいいのですがここずっとは風潮を通り越して圧力に感じられます。

つまり「頑張ることが当たり前の状態」です。

この頑張ることが当たり前の状態ってのはすごく息苦しいです。

この際はっきり書きますけども世の中には「頑張りたくても頑張れない人」が実際たくさんいます。理由はどうあれたくさんいます。

で、実際に頑張っている人がこういう頑張ってない人たちを見ると「甘えだ。頑張らない奴はダメだ。」と頑張ることを強要してきます。

 

しかも頑張っている人たちも頑張ることは当たり前のことなので、いくら無理をして頑張ってもだれからも褒められることはありません。

そうなるとどんどんフラストレーションがたまっていきます。

そしてそのたまったフラストレーションが(頑張っている人たちから見て頑張っていないように見える)頑張っていない人たちへ「甘えるな!頑張れ!」という怒りにも似た形で降り注ぐわけです。

 

「頑張ることは当たり前」の世界じゃ頑張る人も、頑張らない人もだれもいいもいをしません。

「頑張らなくてもいい」にしたほうが、頑張ってない人は安心できるし、頑張っている人は褒められるしで、ウィンウィンだと僕は思うんですけどね。

 

そして自分で決めたことだからこそ、そもそもの話頑張れるんです。

自発的な頑張りだからこそ楽しいんです。

頑張ることを目的にしない

「頑張ることが当たり前」だと手段と目的がぐちゃぐちゃになってきます。

そもそも頑張るってのは自分が自発的に何かを成し遂げたい、達成したいと思ったが、今の自分ではできない、そんなときに起こす行動のことをいいます。

ですからそもそも「頑張ることが当たり前」っていうのもおかしな話です。

頑張るとは自発的な行為に基づくものであり、他者から強要されることではないからです。

他者から強制され無理に頑張ってしまうと頑張ること自体が目的となってしまいます。

自発的に何かを成し遂げるための手段であった頑張るが、それ自体が目的となってしまうのです。本末転倒もいいところです。

 

そもそも頑張らなくても結果を出せるのならそれが一番です。

頑張らずに自分のやりたいことができるならそれが一番です。

頑張らずに、無理せず、肩の力を抜いて生きていけるのならそれが一番です。

頑張ることは手段であって、目的でもないし、みんながしなければいけないことでは決してありません。

「がんばり」も使いよう

とはいえ、頑張ることにも当然いい部分はあります。

頑張ることによって、充実感を味わえるし、自分に自信がつくし、達成感を得られるし。

 

最近僕は「あえて頑張るか」とするときがぼちぼちあります。

手を抜いても、楽にやってもいいけれど、頑張った方が充実感(やりきった感)を味わえるし、いい具合に疲れるし、夜も寝れそうだし、ここはあえて頑張るか、みたいな。

あえて頑張りはもともとがあえてなので途中でつらくなればすぐにやめることができます。

自分で選択して、自分で決められるっていうのがいいですね。

やっぱり頑張ることでもなんでもそうですけれど他者から強制されるのは嫌ですね。

 

人は何かに没頭しているとき余計なことを考えません。

逆説的ではありますが「頑張らない」ということで何もしてないときほど頑張っていない自分を責めてしまう。

休むことが必要なのにいざ休むと自分を責めまくって一向に休むことができないみたいなことと同じですね。

なので頑張らないとはいいつつも、何かに没頭できることはあった方が必ず効果的です。

 

生きているだけでみんながんばっている。

今日のブログは以上です^^

今日も皆様の一日が素敵な日となりますように^^

ではまた!^^