「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

自分とは、全く違う他者とどうやって共生していくか。 

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です^^

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考えも価値観も違う「他者」の存在

 

まず大きく<私>という存在があって、その周りにたくさんの他者がいます。

そして多くの場合その他者は自分とは考えも価値観もまったく違います。

「そんなことないよ。一緒にいる○○は考えも似ているし価値観も一緒だよ」という人は一度真剣にその人と何かについて話してみてください。お金のことでも、仕事のことでも、なんでも。

するとだんだんと自分とその人との違いが明確になってきて最終的には全然違う考えをしているんだなということがわかるかと思います。

コミュニケーションとは、「お互いが同じことを考えていることを確認するための方法」ではなく、「お互いが全く違うことを考えていると知るための方法」だと僕は思っています。

 

僕は中学校に入ったあたりからずっと他者から理解されることを望んでいました。言葉通り「ずっと」です。

このブログでも何度も書いていますが、僕は人とは違う疑問や考えを持っててそれを思春期の敏感な時期に周りから否定された経験があります。

それゆえに、そのときのトラウマ、コンプレックスが残り今も人についつい無理な理解を求めて苦しむことがあります。

 

しかしもちろんこの理解を求める行動はうまくいきません。

なぜなら他者は、自分とは考えも価値観も異なる存在だからです。

言い換えるならば自分の考えと全く同じ人なんてのはこの世の中にいないわけです。

すごく当たり前のことを書いていますが、僕はここがとても重要なところだと思っています。

自分の考えと同じ人なんていないのに、ついつい僕は(僕たちは)他者にその不可能な理解を求めるわけです。

その原因の一つとして考えられるのが、「見かけ上は分かり合っているように見える」ってのが厄介なところだと僕は考えます。

 

大勢の人が仲良く(仲よさそうに)はしゃいでいるのをみるにつけ、すごく中よさそうでみんなとも分かり合えているのに、自分は一人でなんてみじめなんだと、思い込みにより自分を傷つけているんですね。

しかし実際ははしゃいでいる人たちもその雰囲気を楽しんでいるだけであり、その実人い一人の考えがみんな一緒でつながっているってのはあり得ません。

言うなればどれだけ他者と距離が近かろうが人間は皆自分の考えと同じ考えの人はいない、という点において孤独なんです。

だから逆説できではありますが、距離は関係ないんですよね。一人でいても孤独だし、みんなといても孤独。自分は自分という思考の枠を抜け出ない、という点において人はどこにいても何をしても孤独なんです。

 

街中で複数人でつるんで大きな声をあげている若者たちや、常日頃から誰かといないと不安で仕方ない人、SNSの異常なまでのつながりを求める欲などを見るに、僕は人っていうのは多くが「自分は孤独だ」ってことに無意識に気づいていると思うんですよね。もっというと無意識に一人になって孤独と直面することを避けている、そうとも見れます。

 

しかし人は自分の考えと真に同じ人はいないという意味ではみんな孤独なんです。

こう聞くと、「そんな人生は地獄だ」と思われるでしょうか。

僕はそうではないと思います。

 

僕は自分の考えと真に同じ人はいないなら、自分の考えを大切にするのは自分しかいないなって思えるようになりました。

そして自分で自分を支えつつ、人とつながっていくそこにこそ自分とは違う他者との共生が可能になる道があるのではないでしょうか。

 

とはいえ、そもそもの「他者とどうかかわって生きていくか」っていうのはとんでもなく大きなテーマなんでとてもじゃないですけど個人の1ブログの1記事で述べきることはできません。

これらかも僕は生き続ける限りこの問いを考え続けるでしょうし、皆様もずっと考えると思います。一緒に考えていきましょう。

 

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!

 

ps.

僕個人の考えとして、これだけ「他者と私は同じ考えを抱いている」幻想が蔓延している理由に、科学の進歩が大きな影響を与えているんじゃないかと思っています。

 

科学は客観性を大切にする営みです。Aさんではうまくいったことが、Bさんではうまくいかないってことは科学では取り扱いません。

科学の台頭により心理学や言語学といった、本来はカオスな現象である言語や心に関しても人間はすべてを知ることができるのだという万能感を得始めてきました。

 

そもそも「心」なんてものが僕にはわかりません。

どこにあるのでしょうか。脳でしょうか。体の中でしょうか。心臓当たりとか?

犬に心はあるのでしょうか?犬にあるとしたら鳥は?魚は?昆虫は?もうわけがわかりません。

 

「心」に関して現代会での僕の考えは「言葉として便宜上生み出された概念」としています。

つまり「心」という言葉があると会話をするときや、説明をする際に都合がいいのです。この言葉がないといちいちえ~っとってなって先にすすまないじゃないですか。(まあ、それはそれでそういう世界も、僕は面白そうではあるなと思うんですけどね)

そのために人間が後天的に作り出した概念が心なんじゃないのかなと思います。

 

それと言葉に関しても一つ。

言葉って本来ただの音(話されている言葉)や、ただのインクの染み(書かれている言葉)なんですよね。

それをいつしか人間側が「意味」なるものをこしらえて、文法や単語、文節などいろいろ「解明」しはじめたのが僕はいい意味でも悪い意味でも「大きな誤り」だと思っています。

言葉はそんな解明しつくせるものではなく、常にカオスなんです。

文法なんて全く無視して話す人もいるし、単語の意味だってめちゃくちゃな人もいる。しかしそれでもその場で置いてはコミュニケーションが取れやり取りができる、そういうもんなんですよ。

現代は言葉を神格化しすぎているよなあ、と常々感じます。

 

それと数学、といいますが数字や記号も本来はただの「インクの染み」や「書かれたもの」だと僕は考えます。

こんなこと書いたら数学好きな人に殴られそうですが、僕は「数学の正しさ」なんていうのは「正しいとしているから正しい」、そういうものだと思ってます。つまり根拠なんてないってことです。

 

もし仮に僕の目の前に1+1=7だといって一歩も譲らない子がいるとして、僕は頑張って2になることを「教える」でしょう。

(1+1=7好きだなあ)

しかしどれだけ説明してもこの子はひきさがりません。

そうなれば、最後はそうなるからそうなんだ、というしかないです。

 

これと同じで数学の問題でも、答えが書いてあって、なぜそうなるかととにかく永遠に突き詰めていけば「そうなるかそうなんだ」と妥協せざるを得ない地点が必ずやってきます。(実際僕は学生の時しょっちゅうそうなっていたので答えとやり方を丸暗記してテストに臨んでました。)

これは言ってしまえば「論理の限界点」ですよね。

 

結局、理由や説明っていうのはそれらを用いることによって奇跡的に納得する人たちには有効ってなだけでそうではない人にはまるで効果を発しないんですね。

そう考えるとますます「正しさ」なんてものがわからなくなります。

 

実際の学者さんが頭の中で何を考えどう生活しているかは知りませんが、パンピーの僕個人の意見としては、「自分の考えを大切にする」ってことですね。

 

正しさや、理屈、正当性。論理的根拠、なんてものを持ち出して間違っている人(1+1=7と言い張る人)を貶めるような人にだけは僕はなりたくないです。

 

あ~、正しさなんか求めたくない!!