「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

「正しい言葉使い」ってのは気にしだすとマウント合戦にしかならない話

おはようございます^^

こんにちは。こんばんは。

tigubaguこと桂木大輝です。

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「正しい言葉の使い方」が僕をトラウマにさせた

僕自身ずっと言葉について考えてきました。

考えた、というのは言葉通りそのまんまで、考えたのであって答えを出したとか、何か新しい発見をしたとかそういうことじゃないです。

ただただ、ああでもない、こうでもないってことを考え続けていたんです。

以前ブログにも書きましたように、

  • 言葉の意味ってなんだろう
  • そもそも意味なんてあるのかな
  • あるのは言葉の形だけじゃないのかな

などなどまあいろんなことを考えました。

 

で、僕がこういうことを考えてしまう根底には、「不安と恐怖」があったからなんですね。

発達障害を持っている人(特にASD)は自分独自で言葉を作ったり、自分独自の言葉のルールに従って言葉を使う傾向が強いのです。

僕も完全にこのパターンで、自分なりの使い方をしていました。(今でもわけのわからない言葉を作っては気ごころ許せる仲間には使っています。オードリー春日さんの春日語みたいなものです。)

 

わけのわからないとは言えども、実際の場面では何となくで通じるし(普通に会話できます)、むしろ楽しかったです。

しかし世間には言葉に関して厳格なルールを求める人がいます。あげるなら、、

  • ら抜き言葉を気にする人
  • 漢字の書き順、送り仮名を気にする人
  • 敬語、謙譲語をいやに気にする人
  • えせ関西弁に始まる変な方言、変な標準語を使う人に対して異様に厳しい人(イントネーションが違う!語尾が違う!といちいち言ってくる人)

こんな感じの人たちです。

 

で、何を隠そう僕の母親が完全にこのタイプだったわけです。

まあ、とやかく言われました。

漢字の書き方、言葉のイントネーション、きれいな言葉という個人解釈の謎理論の押し付け、変な敬語とののしられる、、

それゆえか僕はいつしか言葉を自分なりに話すことにトラウマを感じるようになってきました。

その影響もあってか、「そもそも言葉とは何なんだろう」と気になって、上記のような哲学への道に走ったわけです。

 

僕の言語観~言葉は伝わればそれでいい~

この記事で言語学的に「そもそも言葉とは何なのか、意味とは何か?」なんて書き出したらそれこそキリがないですし、僕には書ききる力もないのでやめておきます。

 

僕が言葉の厳密性から解き放たれ、「伝われば、コミュニケーションが取れればいいや」と思えるようになったきっかけは言葉とは本来自由で人間があとから意味やら文法やらを勝手に人間側が見出したに過ぎない

と自分なりに気づいたことにあります。

 

詳しく話すと、赤ちゃんって最初単語の意味や文法を学んで言葉を話せるようになったわけではないじゃないですか。自然と気が付いたら話せるようになっていて、その話せるようになった言葉の使い方を人間が後天的に「文法」だの「単語の意味」だの言っているにすぎないんですね。

つまり(人によればむちゃくちゃな理論って思う人もいるかもしれませんが)、今僕が使っている言葉が仮に既存の文法通りではなく、単語の意味も辞書通りでなかったとしても、それでコミュニケーションが取れ日常生活を送れていたら、僕の使い方が新たに文法となり、単語の新たな意味として記載されるんだな、と考えました。

もちろん言葉、というのは一朝一夕で成り上がるものではありませんから、実際文法の改革、単語の意味の追加が行われるには相当の年月がかかるやもしれませんが、原理的にはそういうことです。

コミュニケーションをとれることを第一に、使い方は気にしないように努めています。

 

となると、なぜ多くの人は伝わるし、コミュニケーションもできるのに言葉の「厳密性」を求めるのか。

僕は「言葉の正しい使い方」の生末はマウントの取り合いだと思う

これだといった理由はないとおもいます。

しかし、実際厳密性を求めだすと、相手が間違った、自分は正しい言葉を使っている!ドヤ!みたいな感じになってマウントの取り合い合戦にしかならず、そういう空間はすごく息苦しいです。

それよりも間違ってても変でもいいからコミュニケーションできることを楽しめるほうがずっと楽ですし、なにより言葉の本質にかなっています。

英語も僕は厳密な英語じゃないと馬鹿にされるとこよりも、移民がたくさんいて英語の方言がごちゃまぜで日本英語でも受け入れてくれる場所のほうがずっと好きですね。

 

もちろん「言葉が正しく伝わらないと、間違った解釈を起こす。だから指摘するんだ」という人もいると思います。

これに対して僕は、結局言葉が受け入れられるかどうかはその社会や共同体が(細かくいって人の集まり、コミュニティー)寛容かどうか、だと思うんです。

 

間違って伝わっても間違ったってわかった時に話し合えばいい、考えればいい、とする立場なのか、

とにかく正しくすべて伝わらなければいけない、とする立場なのか、

 

要はその人がどういったことを信念に生きてるかだと思うんですよ。

だからこそ、僕自身は人の言葉の使い方にはできるだけ寛容でいようと思っています。

変な方言の使い方だろうが、ら抜き言葉だろうが、敬語を間違ってようが(敬語とため口の区別くらいはつくと思います。)、それでコミュニケーションが取れるなら、それでいいんです。

よくエセ関西弁を話す人が腹が立つと聞きますが、それも結局は個人次第というか、僕も相手の言葉の使い方に違和感を感じても受け入れるよう努めています。

逆もまた然りで、僕が相手にとって違和感のある言葉を使っていても相手は気にしないでいてくれているかもしれませんしね。

 

長くなりましたが、言葉が寛容であればあるほど、コミュニケーションはもっと楽しくなると思います。

 

今回は以上です。

今日も皆様の一日が良き日となりますように^^

ではまた!

 

ps,

そもそもなんですが、

絶対正しい言葉の意味、という想定が僕はよくわかりません。

もっというと、「言葉が通じるとはどういうことか」ってのも考えてみると奥がもんすごい深いです。