「言葉の意味」を追い求め

こんにちは。tigubaguこと桂木大輝のブログへようこそ。発達障害当事者、ひきこもり経験者の僕が日々感じたことを徒然なるままにつづっていきます。読んでくだされば幸いです。

こんなこと考えてる part1 ぶっとんでいる

中学生の数学の授業の時の話、

僕は問題を解いていた。

 

そのときの先生が「理解できるまで解けよ」といっていた。

 

そのときふと疑問に思ったことがあった。

 

「理解する」ってどういうことだろう。

 

例えば、僕の「理解している」ことと、(クラスメイトの仮にAさんとして)Aさんの「理解している」は同じと言えるのだろうか。

うーん、これじゃ伝わりづらいかな・・?

じゃあ、もっと簡単な話にして。

僕とAさんが今足し算の問題を解いているとする(1+1=?でも、2+3=?でもなんでもいい)。

仮に2+3を解いたとしてお互い「5」と答えが出た。

しかしこれは表面的にはお互い5という答えが出たけれども、もしかしたら従っている足し算の規則が僕とAさんでは違っているかもしれない。たまたま答えが同じなだけで。

もしかしたら何万回も足し算していくうちにおのおのの従っている規則の差異があらわになってくるかもしれない。

 

このことは言葉にも応用できるのはないかと考えた。

僕とAさんはたまたま表面上では(僕からみたら)コミュニケーションが取れているように見えるけど、従っている文法規則が実は全然違っていていまのところたまたまそれが表面化されていないだけかもしれない。

 

これは聞いてもおんなじことだと思う。

「Aさんは『これこれの規則に従っているよね』?」ときいてもそれもまた言葉で表されているので、一緒のことである。

 

そんなことを考えると僕はとっても不安になった。

 

なんか哲学の世界でいう独我論?てきなことなのかなあ・・・・。

人の内面的なことは絶対に知りえないってことなのかな・・・・。

 

そこらへんのことはまだよくわからないけどとにかく当時は不安になりました。

僕と他人の「理解」は違うかもしれない。

問題を解くと全くおんなじ答え、おんなじ過程でも考えていること、従っている規則は僕と他人で全く違うかもしれない。

 

それが僕にとってはとにかく恐怖でした・・・・。

こんなことばかり考えていたので中学(高校も)のときの学校生活は地獄でしたね笑

授業よりもそういう疑問のほうが気になって仕方ない!!って感じで笑

 

 

ここで少し僕と似たような考えをしていた本があったので一部引用します。

永井均著『翔太と猫のインサイトの夏休み~哲学的諸問題へのいざない~』(ちくま学芸文庫)(P192~)にこんな一節がある。

 

(以下引用、一部僕が文脈に合うように変更した個所はあります。)

翔太「でもさ、生徒がみんな、てんでばらばらに足し算の規則を理解するなら、どうしてみんな足し算の答えが同じになるのさ?それにもし同じにならなかったらどうするのさ?」

 

猫のインサイト「事実答えが一緒になるってことに根拠はないんだよ。逆に根拠なく一致するってことが出発点なのさ。あえていうなら、人間って動物に関する事実だ、とでもいうほかはないんだ。

(中略)

むしろ難しいのはね、ほんとうに一致したって言えるかどうかってことなんだよ。たまたまいくつかの事例で一致したからといってね、規則の捉え方がほんとうに同じかどうかはわからないからね。問題の答えが同じだってことは、同じ解き方をしている根拠にはならないだろ?いくら同じ結果が出ても、たまたま一致していただけかもしれないからね。複雑な問題なら、解き方も言ってもらえればいいけど、一桁の足し算なんかになると、答えの一致でしか、規則の捉え方の一致を確かめられないからね。複雑な問題なら、解き方もいってもらえばいいけど、一桁の足し算なんかになると、答えの一致でしか、規則の捉え方の一致を確かめられないんだ。規則の捉え方が示されている行為の中に、何が示されているかは、結局、それを語ることによってしかわからないんだけど、逆に、いくら正しく語ることができても、それだけじゃあ本当に正しく規則に従うことができているかどうかはわからないってことなんだよ。 そういう風に考えるとね、僕らが従っている足し算の規則だってそれぞれみんな違うかもしれないんだよ。たまたまいまのところ、それが発覚するような事例にぶつかっていないだけかもしれないんだ。」

 

かなり引用が長くなってしまいましたが、自分の考えとすごく近いと感じたので引用しました💦

ただ最後の「そういう風に考えるとね、僕らが従っている足し算の規則だってそれぞれみんな違うかもしれないんだよ。たまたまいまのところ、それが発覚するような事例にぶつかっていないだけかもしれないんだ。」

ここに大共感をしたので引用しました。それだけです笑

 

僕は、この疑問を中学生の時に感じたとき、先生や親や周りの人にはなしても「何を言ってるの?」みたいな感じのことしか言われなくてとっても孤独感を感じていました。

 

この本に出合ったのは大学生のときなんでとうに中学は卒業していたのですが、疑問としてはずっと抱え続けていたので、この本のこの一節に出合えたことは本当にうれしかったです。

 

最初の「理解するとは」に戻るんですが、よく「理解したか」と先生や指導者は問うてきますが、なにをもって「理解した」というのかってものすごく難しいと思っています。

 

テストで点数をとれてもそれは(哲学的レベルも含めて)「たまたま」なのかもしれない。

今回が満点でも、次のテストの時に自分の使っている規則が全く通用しなくなって0点になるやもしれない。

(まあこういうのって『現実的』に考えたら『あり得ない』って言われるんでしょうけど、僕は現実どうこうより可能性どうこうで考えています。伝わるかな?💦)

 

 

全く解決も答えも示さず、自分の狂った考えを提示するだけのブログですが、こんなことを一度でも考えたことがあるよって方はコメントいただけると本当にうれしいです!!

本当にきれいに終わるとか、いい締め方とか全くないです!ただ考えを羅列するだけですが、よろしくお願いします!

 

最後に

「あなたの言ってることは絶対に間違っている」

僕はこの言葉が大嫌いです。

どんな考えも間違っているかどうかなんて、相対的なものにすぎないというか、絶対なんてないと思います。(絶対は絶対ない  って考えるのはまたの機会に💦)

 

哲学書(とはいっても全く読み込んだというほど読んではいないと思いますが)を読んでいるとそんな世間では間違っていると思われている考えに果敢に立ち向かっている人々の存在を知ることができました。

数学の「1+1」ですら別に2じゃなくてもいいと思っていますし、なんで2になるのかなんて理由は知りません。仮に知ったとしても「それでも2じゃなくていいんじゃない?」っていう気がします笑

そしてたぶん「2じゃなくてもいい理由を探し続ける」と思います。

 

 

 

 

始めてブログをかき、文章を書くので、自分の考えていることを文章にすることのあまりの難しさに驚いていますが、細々とでも続けていけたらいいなと思っています。

僕の考えに共感してくださる人がいることを心より祈っています。